これはスティグレールとクレポンが中心になって、現在の情報化社会の問題とそれに対してどのように戦うのか、そしてどのように組織化するのかという問題を宣言という形で先日公表したものです。日本でも、こういった形での呼びかけに、積極的に答えられるように、簡単に訳出しておきました。
 ちょっと煩雑に見える点があるかもしれませんので、簡単に論点を要約します。
 現在は、情報社会と言われているように、その技術が社会の中で大きな役割を果たしています。それを精神産業と呼びます。それは現在までの所、市場主義や意識管理という、技術の持つ一つの側面のみが、特定の利益集団によって使われているのが現状です。
 では技術をなくせばいいのかというと、実際には、この技術は、府の側面と同時に、人間をさらに広い地平に広げてくれる可能性をもたらすものでもあります。世界のさまざまな地域に、またさまざまな社会層の中に新たな形でもたらされた「貧困」にたいして、それを解決する手段が、この技術にはあるのです。
 人間は、「書く」という行為を通して、肉体の外部に記憶を持つようになり、共有する狭い物理的な空間を越えて知識を伝えることができるようになり、縦の時間軸でつながる文化や文明というものを作り出しました。外部の記憶そのものを抹消しようというのは、この意味では文明の否定ということになります。しかし、この外部の記憶は、現在では個人の生活の場から紡ぎ出された記憶ではなく、宣伝・広告を始めとする「ある特定の意図」で作られた「模擬記憶」となっています。これをスティグレールは「記憶の産業化」と言っています。
 イラク侵略を正当化するアメリカの指導者層の「記憶操作戦略」を見るとよく分かると思います。人々は、「イラク/フセイン/大量破壊兵器/アル・カイーダ」という、偽造された記憶によって判断を迫られ、実際にアメリカの人々は行動を選択してしまったのです。
 ここでは、記憶を巡る戦い、精神産業を特定の利害のために利用するのではなく、もっと多くの人々がもっと自分たちの生活の中に根を持った、言い換えればエコロジー的な裾野を持ったものとして再構成する戦いが必要ではないでしょうか。
 ちょうど「複製技術時代における芸術」でベンヤミンが、アウラ(一回性、特異性)を喪失した複製芸術の受容が、精神の中で「ファシズム」の温床となっていると警鐘をならしたと同じように、全く同じものを記憶の中に刷り込む現代の技術が持つ一側面に対して、私たちは模造された「個性」ではなく、ほんとうに肉体の場を通した知覚を世界的に繋げていく回路、言い換えれば「新しい時代の新しい個人化」の場を作り出すことが、現在、緊急に要請されていることではないでしょうか。
<文責土屋>